二つの天秤
2005/12/23公開
あの衝撃の出会いから、数日が過ぎた。
胸の内では、堰を切ったような混乱と動揺が荒れ狂い、あの日を境に眠れぬ夜が続いている。
あの時の衝撃は――
夢から覚めたからなのか。
それとも、そもそも夢など見ていなかったと知ってしまったからなのか。
そう、夢ではなかった。
決して、自分が作り出した幻などでは。
ずっと捜してきた。
あの人達が確かに存在したことを。
自分があの人達と共に生きたという証を。
ソレリ……
あなたは、本当にソレリなのか?
私は捜し続けた。
あの親子と最後に過ごした、この町を。
彼女はここにいる。ジュノに。
冒険者で賑わうこの町は、世界の流通の中心だ。
私は昼夜問わず、押し寄せる人波の中を歩き回った。
大通りから奥まった路地まで。
ある日は、大通りを見下ろせる場所に一日中立ち尽くし、彼女の姿だけを追い続けた。
襲撃の頻度は下がったとはいえ、無闇に歩き回るのは賢い行動ではない。
誰が、いつ殺意を向けてくるか分からない。
それでも私の目は、自然とある種族ばかりを追っていた。
長身と褐色の肌。エルヴァーン族。
彼らが皆、刺客に見えてしまう。
娘を捜すはずの目は、次第に警戒の色を帯びた。
すれ違うまではただの民間人。
しかし振り返った瞬間、あの軍師の犬に変わるのでは――
そんな妄想すらよぎる。
近年は他種族の刺客も増えた。
だが、あの軍師が放つ刺客は圧倒的にエルヴァーンが多い。
たまに他種族の寄せ集めの若者が剣を向けてくることもあったが、恐らくは捨て駒。
緊急時に放り出す撒きびしのような存在だ。
今まで斬り捨ててきた者達の顔など覚えてはいない。
それでも、人混みの中で見覚えのある気がする顔に、背筋が震えることもあった。
歩き回ることがどんなにリスクの大きいことかは理解していた。
だが、捜し続けてきた少女との再会の可能性と天秤にかけるなら――
リスクなど、比較にもならなかった。
それでも捜しても、捜しても、見えるのは世界中から集まった冒険者ばかり。
眺めれば眺めるほど、憤りが胸の奥で熱を帯びていった。
昔に比べ、世界は平和になったのだ。
獣人は依然として人に害をなすが、軍を成して攻め寄せてくるわけではない。
町には物が溢れ、冒険者達が流通を促し、活気をもたらす。
彼らは他国の者と交流し、意見を交わし、共に戦い、この世界を知ろうと旅を続けている。
だが――
何故、そんな時代が来たのか。
この時代のために、数え切れない“誰か”の血が流れたことを知っているのか。
貴様達は知らないのだろう。
戦争というものを。
アルタナの気まぐれな奇跡に守られ、軽々しく武器を取り、平和を享受した世界で笑い。
冒険の武勇伝を語り合うことができるのは。
一体。
誰の。
ソレリを捜すことで辛うじて保たれていた私の死んだ心は、そんな黒い思いでさらに塗り潰されていった。
そして今日――
再びこの町で彼女の姿を見つけた私は更なる衝撃を受けた。
数日前に突然私の前に現れた彼女。
髪を高い位置で結わいたあの横顔。
唇から零れる愛らしい声。
そしてあの瞳の輝き。
あのヒュームの夫婦を写したようだった彼女は、腰に一振りの剣を下げ、腕に盾を備えた武装した姿であった。
なぜ、あなたがそのような格好を?
それではまるで………
そして次の瞬間、私は凍りついた。
彼女は数名の若者と共に、クフィム島へ向かう地下通路へ入っていったのだ。
私の体は動けなかった。
途端に全身に冷たい汗が噴き出し、四肢はまるで石化したかのように硬直した。
身体のあらゆる場所にいくつも残っている傷跡がざわめき、私を縛り付ける。
……どうして……
行かない…で……
…駄…だ………
殺される……!
行っては、駄目だ!!!
過去に受けたすべての傷が裂けるような感覚に襲われながら、私は地下通路へ足を踏み入れた。
頭の中は疑問と懺悔で埋め尽くされる。
今は親子を追いかけた“あの日”なのか。
それとも、十七年後の別の“今”なのか。
分からなくなる。
なぜ、そっちに行ってしまうんだ?
死んでしまう!
もう会えない!
二度と!!
悲鳴の奔流が頭を締めつけ、割れそうなほど痛む。
身体は自分のものではないかのように前進を拒み、激痛が全身を駆け巡った。
それでも私は、赤子のように覚束ない足取りで湿った壁に手をつき、一歩ずつ進んだ。
あの夫婦の娘らしき彼女が引き返してくることを願いながら、暗い通路の先を見つめて。
ふと、遠い昔のことを思い出す。
初めて鎧を身につけ、あの人達と肩を並べて歩いた日のこと。
ドルスス、セト、ワジジ、フィルナード。
――みんな。
――あの後、私はマキューシオ達ともう一度ここを通りました。
――でも、止められなかったんです。
皆で歩いた記憶が、親子を追ったあの日の赤い記憶に塗り潰される。
足がガクガクと激しく震え、堪らず片膝を付く。
荒い息を吐き、すぐ立ち上がった。
時は経った。
長い長い時間が。
あの頃の無力な私ではない。
今度こそ――絶対に。
地下通路を抜けると、視界が一気に開けた。クフィム島。
薄く積もった白い雪は、かつて見たものと変わらない。
その雪を蹴散らしながら戦う冒険者たちの姿が目に映り、私は反射的に足を止めた。
彼らの中に、あの娘の姿を探す。
――まさか、冒険者であるはずはないが。
そう思いながらも、似た背格好を見つけるたび胸がざわつく。
そして、エルヴァーンの姿が視界に入ると、身体が無意識に強張った。
彼らへの不信も、冒険者たちへの苛立ちも、どちらも拭えない。
あの頃から積もり続けた感情が、白い雪のように胸に堆積している。
しばらく探しても、彼女の姿はなかった。
もっと先へと進んだというのか。
焦りに背を押され、拒絶する身体を引きずるように前へ進む。
くすんだ黒の外套は、今日に限ってひどく重い。
冒険者達のようにしっかりと整った装備はしていない。
手に入る装備を継ぎ接ぎで身につけ、大破すればまた奪う。
その多くは――私が刈り取った命の残滓。
今までそれについて何か考えたことはなかった。
だが今日は、それらが私を縛りつけているように思えた。
怯えている自分に檄を飛ばし、一歩、また一歩と歩みを進める。
そこで――見つけた。
昔のヒュームの女性と、まったく同じ後ろ姿を。
私の長い銀髪の陰で、思わず目を見張る。
彼女が傍らの男に振り返り、何かを言いながら手を差し出している。
その相手は――
エルヴァーン。
胸の奥で、殺意が爆ぜた。
先ほどまで気づかなかったが、彼女が共にしている者の中にエルヴァーン族の男がいた。
なぜだ。
何のために、この島へ?
あの愚暗の種族――彼女と私からすべてを奪った者たち。
なぜ、その後ろを歩く?
なぜ、仲間のように振る舞う?
嫌な予感が、冷たい手で背筋をなぞっていった。
このままでは、彼女の身が危険だ。
私は外套の下に隠した大鎌の柄を握り、これからの行動を必死に考える。
だが――次の光景が私を深く混乱させた。
彼女が、崖の方へ向かった。
その瞬間、身体が凍りつき、息が詰まった。
なぜ――。
――なぜだ!?
私の全てが始まり、全てが終わったあの場所。
全てが美しく、神秘的で、狂気に満ちたあの崖。
記憶が蘇り、動けなくなる私をよそに、彼女は何事もなく崖を眺め、同行の若者たちと島の奥へと歩み去った。
その背中を見送りながら、胸に大きな疑問が芽生える。
――本当に、ソレリなのか?
もう、これ以上は進めなかった。
崖を見ることも、空を見上げることすらできない。
あなたは違うのか?
あの崖の先で両親は身を投げ、あなた自身も落ちかけ、そして亡者のスケルトンに殺されたのではなかったのか。
この狂気の島を、何も感じないというのか。
本当にソレリ?
それとも――あの少女ではないのか?
雪に光る地面の先、岩の狭間に吸い込まれるように、彼女の姿は消えた。
私は呆然と立ち尽くし、ただ問い続ける。
……なぜ、彼女がソレリだと思ったのだ、私は。
それは、あのヒューム夫妻を思い出すからだ。
表情の作り方はまるで違う。
だから別人に見える瞬間も確かにある。
だが不意に見せる眼差しや仕草――それがあの少女を鮮烈に呼び覚ます。
脳裏に焼きついているのは、泣き叫ぶ少女の姿。
けれど、笑っていた時の彼女は――
今の彼女のように輝いていたと、確かに思える。
ここで引くには、十七年の歳月は長すぎる。
胸が潰れるような息苦しさに耐え、唇を噛む。
肉が裂ける感覚すら無視して、私は前へ。
追って確かめる。
別人なら、それでいい。ただの空似だ。
また野良犬の生活に戻るだけ。
だが、十七年を経てようやく掴んだ光を、証明もできないまま手放すことだけは――したくない。
どう確かめればいいのかなど、分からない。
彼女に私だと伝えたら、彼女はどういう反応をするだろうか。
嫌なことを思い出させてしまうかもしれない。
それとも、会いたかったと涙を流してくれるだろうか。
いや――私のことなど覚えていないかもしれない。もう大分昔のことだ。
もし覚えていなかったら?
どうすればいい?
ソレリに特徴的な外見があったわけではない。
写真など持っていない。
彼女もまた、私たちとの繋がりを示すものは持っていないだろう。
証明しようがない――お互いに。
それでも私は、もっと近くで彼女を見たい。
この目で確かめたい。
証明するものがなくても――心が、魂が、互いを思い出すかもしれない。
恐怖に凍りつく身体に言い訳を浴びせながら、足を運ぶ。
崖は見ない。今向かうべきは、あそこではない。
歩く理由はただひとつ。
あの少女と再会を果たすためだ。
彼女が進んでいった通路を追ったが、なかなか姿を見つけられなかった。
道は何度も枝分かれし、開けた場所に出れば行き先の見当がつかない。
崖より奥へ進むのは初めてだ。ただ焦りだけが足を急かし、私は闇雲に歩いた。
浅く積もった雪を踏みしめて彷徨ううち、前方に冷気の中へぼんやりと浮かび上がる塔のような影を見つけた。
島の奥にこのような建造物があるとは知らず、思わず足が止まる。
そしてその塔の下に、冒険者たちの影が小さく見えた。
――その中に、いた。
彼女だ。
しかもあろうことか、抜き放った剣。
目の前には魔物。
血の気が引き、呼吸を忘れてその光景に見入った。
次の瞬間、彼女は怯えた様子で塔の中へ駆け込み、代わるようにあのエルヴァーンの男が飛び込んだ。腰の剣を抜きざまに。
男が剣を引き抜いた刹那、胸の底から何かが噴き上がる。
魔物を瞬く間に斬り伏せた彼は、そのまま彼女を追って塔へと消えた。
ヤハリヤツハ敵ダッタ。カノジョハ殺サレル。
視界が白くはじけ、気付くと私は塔の内部――広い通路を駆けていた。
見えたのは、斬り殺された巨人の屍、片膝をついて身を屈めるエルヴァーンの男、そして瓦礫に倒れ伏したヒュームの娘。
――まさか、本当にあの男は軍師の放った刺客なのか?
――テュークロッスはすでにソレリを見つけていたのか?
殺意が爆煙のように噴き上がる。
刹那、男の首を刎ねる寸前で鎌を止めた。
わななく体を理性でねじ伏せながら、狂気に震える視線で男を見下ろす。
殺せ。殺さないとまた奪われる。
脳裏で狂った声が金切り声で叫ぶ。
だが、今の私は――何より情報が欲しかった。
殺意に取り憑かれた手を必死に食い止め、喉の奥から搾り出す。
「…………貴様……何者だ」
* * *
どっという鈍い音がして、リオに突進してきた巨人の左足が膝下から吹き飛んだ。
次の瞬間、支えを失って前のめりに崩れた巨体の背へ、止めの一太刀が走る。
勢いそのままに地面へ倒れ込んだ巨人の体が、リオのすぐ横へとずずん、と地響きを立てて横たわった。
「ギャーーー!ギャーーー!あぁぁぁぶないわね、この大雑把男!!」
荒々しく巨人を斬り倒したダンは片手剣を払うと、周囲にまだ脅威が残っていないか目を走らせた。
付近のモンスターは派手に一掃され、しばらくは危険もないだろう。
ほっと息をつき、軽傷のリオに回復魔法をかけようとするロエ。
だが詠唱に入ろうとしたところで、ダンの声が鋭く飛んだ。
「こいつは俺が。ロエさんはパリス達を追ってください」
張りのある強い声に、ロエはびくりと肩を震わせた。br>
どう返したものか迷いながらリオをちらりと見る。
「大丈夫。回復なら、俺も多少できる。行ってください」
ダンはさらに語気を強め、ロエの目が訴えようとするのを遮るようにケアルを詠唱した。
彼ほどの冒険者なら、初歩の治癒魔法を成功させるのは容易い。
まして戦士からナイトへ転向するつもりなら、これくらいは当然だ。
柔らかい光がパッと広がり、リオの傷は瞬く間に癒えた。
「……あんたに癒されるなんて気分悪いわ」
助けられたにもかかわらずそう吐き捨てるリオを、ダンは完全に無視した。
リンクシェル越しには怒気を含んだ声が響き、向こうの状況を探っている。
トミーがデルクフの塔に入ったと知らされると、ダンは眉間の皺を深くし、舌打ちした。
ロエはそんなダンを見上げ、何かを堪えるように一度口を引き結ぶ。
バインドされたままのリオは、足が地面に縫いつけられたように動かず、ジタバタしては尻餅をつく始末だった。
本来ならミミズのバインドなど即座に弾けるはずだが、彼女はまだ未熟で、なかなか魔法が解けない。
「……私が……ここにいます。だから……ダンさん、行ってください」
俯いたままだったロエが、唐突にそんなことをしどろもどろに口走った。
そう言っている本人が一番『何を言っているの』と困惑しているような顔をしている。
ダンも意味が分からず、眉を寄せた。
前衛の自分が護衛につく方がいいことくらい、ロエは理解しているはず――なのに。
今日のロエは、どこか様子がおかしい。
気付くのが遅いと自覚しつつも、ダンはうやくそれに思い至った。
ロエへ向き直ろうとしたその瞬間、二人の頭の中にパリスの声が響いた。
トミーを発見したとの報告は、妙に気の抜けた調子だった。
二人はハッとデルクフの塔へ視線を向ける。
同時の仕草に、リオが怪訝そうな声を漏らした。
「合流した」
ダンは深く溜め息をつきながら状況を短く伝えた。
リンクシェルが聞こえないリオは、訳も分からず座り込んでいる。
“良かった……怪我はありませんか?”
“ううう、スミマセン。大丈夫です……”
“そっちはどうなの?大丈夫かい?”
“あぁ、今、効果切れ待ちだ”
“了解~。塔の下で待機しますよ~”
「…………こういった状況で、私情は入れてほしくない」
数秒の沈黙のあと、ダンがぼそりと低く言った。
その言葉に、デルクフの塔を見つめたままだったロエの細い肩がびくりと震える。
座り込んだリオも、大きな三角耳をぴくりとダンへ向け、眉をひそめた。
「気を使ってくれたのか、どういう意図だったのかは知りませんが……態勢が乱れるので」
冷静な忠告。
しかしロエは凍りついたように動けない。
そこへ突然、リンクパール越しに甲高い悲鳴が響き、ロエは思わず目を白黒させた。
ダンの耳にも届いたらしく、言葉を途中で切り、再び塔へ視線を向ける。
リンクシェルで何事かと二人で問い掛けるが、しばらく返事がない。
今の悲鳴は相当高かった――が、間違いなく長身のエルヴァーンの方の声だった。
「まったくさっきから何なのよ、あんた達!意味分かんないわよ」
リンクシェルが聞こえないリオには、二人だけが突如そっちへ意識を向けるのが不可解で仕方ない。
「なぁにもう、今日は最低よ!あの金髪睫毛男はキモイしローラは私をシカトしてくしっ。あたしが待てっつってんのに、ローラのやつ……ぶっ飛ばしてやるわ!」
親指の先をがじがじ噛みながら愚痴り続けるリオを、ダンが鋭い目で見下ろした。
「――何がこっちのことだあのハゲ……おい、まだバインド解けねぇのか!?」
「ハゲ?!誰がハゲよ!!あんたもぶっ飛ばすわよ!!?」
盛大に勘違いしたリオが凶暴な形相で立ち上がり、ダンに詰め寄る。
ダンとロエは目を見張った。
どうやらバインドはとっくに切れていたようだ。
「…っ……ロエさん先導頼みます!」
「は、はいっ」
ダンが舌打ちしながら声を張ると、ロエは慌てて駆け出した。
デルクフの塔を目指すロエに続けと、ダンがリオを怒鳴る。
文句を並べつつも、リオは勢いに押されてタルタル魔道士の後を追った。
最後尾についたダンは、再びリオがモンスターに絡まれないよう周囲を警戒する。
前方で飛び交うリオの文句も、いまの彼にはもう耳に入らなかった。
返事を返さないのか。
それとも――返せないのか。
考えにくいが、どうも後者のような気がしてならない。
――あいつの声が、聞こえなくなった。
ダンはもう一度リンクパールを通してパリス達に呼びかけ、そびえ立つデルクフの塔を睨みつけた。
そして、自分の油断に激しい苛立ちを覚え、低く『くそっ』と毒づいた。
あとがき
第五話ですが全然ストーリーは進んでいない罠。しかし、第五話を読んでからまた第四話を読み直すと、もしかしたらささやかな発見があるかもしれません。
ってか……わぁ~こんな人が後をつけてきてたんだねぇ~怖いね~。(´□`;)
ここで一気に第二章の暗さがリターンしてきましたね!やった!!(ぇ)