犬牙錯綜

第三章 第六話
2006/01/11公開



まるで時が止まったかのように何も動かず、音もしなかった。
鎌を握るノルヴェルトが刺すような眼差しで見下ろしているのは、一人のエルヴァーンの男。

男は鎧ではなく布製の防具を身につけ、腰には一振りの剣を下げている。
首に鎌を当てられた瞬間から硬直し、指先ひとつ動かせずに静止していた。

大抵、身の危険を感じた者は体を震わせ、呼吸を乱すものだ。
しかし、この男は完全に固まっている。
あまりの恐怖で呼吸すら止まってしまったのだろうか。それとも――。

観察するほどに、疑念は強まっていく。
そしてノルヴェルトは、男のすぐそばで倒れ、ぴくりとも動かないヒュームの娘のことが気にかかって仕方がなかった。

彼女の身に何が起きている?
なぜ気を失っている?
あそこで死んでいる巨人に襲われたのか?
では、目の前の男が無傷なのはなぜだ。仲間ではなかったのか――。

この男など早く斬り捨てて、彼女に手を伸ばしたい。
気が狂いそうなほどの衝動を押し留めているのは、十七年という長い歳月だけだった。

どう切り出せばいいのか、想像もつかない。
ましてや、彼女が本当にあの少女なのかもまだ分からないというのに。
必死で後を追ってきたものの、まだ心の準備ができていないことに、今さら気づく。

――今は、とにかく目の前に敵がいる。

惑う気持ちを振り払い、ノルヴェルトはじりじりと胸を焦がす殺意に意識を集中させた。
まずは彼女にとっての災いを拭うのが先だ。

ノルヴェルトは質問に答えるよう促すため、首元に当てた鎌をカチ…と持ち直した。
その意図を読み取ったのか、男の強張った肩がぴくりと反応する。


「……えー……僕ぁ……人畜無害な一般冒険者です…が……?」

声は引きつっているものの、危機感に欠ける返答であった。
この男は今までの刺客とは風貌からして異なるが、平民を装って近づいてきた者も過去にはいた。油断はできない。

それに、どうにも感情が読み取りづらい。
この男は何を考えている?
恐怖で錯乱し、そんな言葉を口にしているのか?

「……お宅様は?」

ノルヴェルトの疑念が膨らむ中、意外にも質問が返ってきた。
色素の薄い金髪――アイボリーの髪の反対側にある顔は、一体どんな表情をしているのか。

苛立つ気持ちを奥歯で噛み殺しながら、ノルヴェルトは短く命じた。

「立て」

鎌をわずかに離すと、男は精神的な余裕を得たらしく、『アララ、無視ですか』と口の中で呟きながらゆっくり立ち上がった。

立ち上がり終える頃には、自然と両手を上げ、肩まで掲げた降参の姿勢になっていた。

――私や貴様のことなどどうでもいい。

私が知りたいのは……

逸る気持ちを抑え切れず、ノルヴェルトは一瞬だけ倒れている娘へ視線を走らせてから尋ねた。

「…………彼女の……名は何と言う?」

その問いは、予想以上に勇気が要った。
平静を装っているつもりでも、声に心情がにじんでいたかもしれない。

尋ねた瞬間、ノルヴェルトの内側は強く緊張した。
しかし、背を向けて立つ男の答えは軽かった。

「…そんなぁ……好きな子の名前くらい自分で聞いてくださいよ~」

ノルヴェルトは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
引きつった声ではあるが、なぜこの状況でそのようなことを言うのか。

不信感が一気に膨れ上がり、次の瞬間には男の襟足を掴んで壁に叩きつけていた。
瓦礫に足を取られた男が短く呻き、ヒュームの娘が倒れるすぐ横の壁に無様に貼り付く。

ノルヴェルトは男の右肩を掴んでこちらを向かせ、胸倉を引き寄せながら鎌の刃を再び首元へ押しつけた。

視線を送らずとも、意識の端に倒れた娘の存在を置く。
この男が本性を現しても、彼女に危害を及ばせてはならない。

強張った表情で見返してくる男は、思ったより若かった。
正面から見て気づいた。男の体には細かい血の飛沫が散り、顔も血を擦ったように汚れている。
血の色から巨人のものだと分かる。しかし――

エルヴァーン族の特徴が目につき、ノルヴェルトは嫌悪と共に言った。

「エルヴァーンは信用できない……」

「おや、僕にはあなたもエルヴァーンに見えますけどねぇ?」

鎌の恐怖に耐えるような表情をしながらも、男は苦笑を浮かべる。
その言葉にノルヴェルトの眉がピクリと動いた。
睨みつける目に殺気とは別の色が混ざり、表情が険しくなる。

「私は……自分がエルヴァーンであることが呪わしい……!」

そう吐き捨てながら、ノルヴェルトは確信した。 ――この男は何かを知っている。

なぜ、この男は自分を前にしてこれほど余裕でいられる?
何も知らない者なら、パニックを起こして喚き散らすはずだ。
寧ろそちらの方が自然である。
鎌を突きつけられれば何でも答えるだろうし、命乞いを並べ立てるのが普通だ。

それなのに、この男の態度は――

一瞬で、両手を挙げていた男の手が、腰に下げた剣を掴んだ!

男が動いた瞬間、ノルヴェルトの体も反射で動く!

ばつっ、と音がして、剣を抜こうとした男の腹を黒い大鎌の刃が裂いた。
驚愕に見開かれた男の瞳を、ノルヴェルトはじっと見つめる。

――今までに、数え切れないほど見てきた、人が死ぬ瞬間。


倒れゆく男の体を冷たく見送っていたノルヴェルトだが、不意に、生気を失った姿がぶれた。
そして、その体から押し出されるようにして、もう一つの影――別の男の体が姿を現す。

ノルヴェルトは目を見張り、咄嗟に鎌を握る手に力を込めた。

今斬ったのは幻影だった――。
そういえば、そんな魔法が存在した!

だが、本体の男は心底驚いた顔をしており、そのまま後ろに倒れて壁に背中を預けた。
何が起きたのか分からない、愕然とした表情。

――もしかすると、自分の魔法の効果を忘れていたのかもしれない。
本来なら、幻影のワンクッションを利用して反撃に移るはずだ。

男のあまりの驚きように、ノルヴェルトも一瞬たじろいだ。
だが、思い出したように剣を抜こうとする男の動きには、即座に反応した。

男が剣を抜き払うと、細身の剣はそのままぽーんと宙を飛んで地面に落ちた。
握っていた男の指が辺りに飛び散った。

なぜ手元から剣が離れたのか理解できない様子で、男は血を撒き散らす自分の手を見下ろし、苦笑を浮かべた。

続く一撃――横薙ぎに振るわれた鎌の柄を、男はギリギリで屈んで避け、横へ転がって距離を取った。

先ほどは咄嗟に殺してしまいかけたが、この男からはまだ聞き出したいことがある。

床を転がってノルヴェルトの正面から脱し、男は飛んだ剣を左手で掴む。
即死しない箇所――足を狙って鎌が振るわれた。
男の剣がかろうじて刃を受け、流す。しかし左手では圧が足りず、剣は再び弾け飛んで弧を描く。

衝撃で顔を歪める男の胸へ、ノルヴェルトは思い切り蹴りを叩き込んだ。
壁に叩きつけられ、反動で前へ倒れかけた男の首を掴む。

これで――
利き手の指はない。
武器もない。
魔法の詠唱もできない。

「…ぅく………あっ…」

くぐもった声を漏らした男が、苦しげに身をよじる。
まだ無事な手と、指の失われた手――両方でノルヴェルトの腕を掴んだ。

締め付けているわけではない。
だが先ほどの蹴りが呼吸器を直撃したらしく、男はひどく苦しそうだった。

「貴様の狙いは何だ」

冷えた声で問い、ノルヴェルトは首を掴んでいた手を放す。
男は力が抜け、ずるずると座り込み、激しく咳き込んだ。

もしこの男が本当にテュークロッスの部下なら――それは大問題だ。
連中は、あの夫妻の死をまだ知らないはず。
夫妻は娘と共にどこかで隠れて生きていると思わせ、これまで自分だけが追われてきた。

では、もし。
何らかの情報で夫妻の死を知っていたとしたら?
親子は何処かで生きていると思わせ、自分が必死に少女を探していると気づいていたら?
そして――もし、連中の方が先にその少女を見つけていたら?

指のない手を抱えるようにしながら男がノルヴェルトを見上げる。
血の気が見る間に引いていき、生気が急速に失われていく。
呼吸も荒い。先ほどの蹴りで骨が折れたのかもしれない。

そこまで考え、ノルヴェルトは咳き込み血を吐く男からようやくヒュームの娘へ視線を向けた。
そして、いっこうに目を覚ます気配のない彼女を見た瞬間――一気に血の気が引く。

――もしや…!?

気づけば、娘の方へ足が動いていた。
その咄嗟の行動に自分でも驚き、ノルヴェルトは慌てて後ろの男を振り返る。


男は壁にもたれ、力なく座り込んだまま、自分の足元をじっと見つめていた。
一瞬、生き絶えたのかと思ったが、まだ息はある。生きている。

ゆっくりと、男がこちらを見た。

「……!?」

ノルヴェルトは、その顔に浮かんだ表情を見て目を見開き、体がさっと冷えるのを感じた。

――なぜだ!?

頭が一気に混乱で満たされる。

――――――これは、罠?

――――自分は誘い込まれたのか?

――――――――まさか……彼女…も?

―――――罠、狙いは私か!?


恐ろしい推測が次々と浮かび、ノルヴェルトは信じられないという顔で娘を見る。
すぐに男へ視線を戻すが、男の様子は先ほどと変わらない。動く気配もない。

分からない。 何をどう見て、どれを信じ、どう動けばいいのか。

ノルヴェルトは悲しげに娘を振り返り、歯噛みして鎌を構えた。
そして男へ刃を向け、止めを刺すべく振りかぶる。

「貴様……っ!」

――その瞬間、ノルヴェルトの腕がびくりと止まった。
茫然とノルヴェルトを見ていた男が、不思議そうな目を向ける。

ノルヴェルトは驚愕に目を見開き、背後を振り返った。






「ぶっぶー、誰君


振り返った先には、金髪碧眼のヒュームの男が鎌の柄をしっかり掴んで立っていた。

「!!!?」
仰天したノルヴェルトはその手を振り払い、大きく飛び退く。
魔道士の高等なローブを着たその男は、笑みを浮かべたまま鎌を離した。

いつの間に現れた!?このエルヴァーンの仲間か!!

「――おい、何処だ!?」

遠くから声が響く。
金髪の男を凝視したままノルヴェルトの肩が震える。

座り込んだエルヴァーンの男が、声のした方向へ弱々しく叫んだ。

「こっちこっち~……お願いだから早く来てぇ~~…」

「……っ!!」

ノルヴェルトはわけもわからぬまま後退し、ヒュームの娘へ視線を戻す。

――やっと……やっと見つけたと!

彼女を連れ出そうと手を伸ばしかける。
だが、その手が血に濡れ赤く染まっているのが目に入り、まるで自分の手を恐れるように引っ込めた。

代わりに、彼女を求める瞳だけが叫ぶ。

ソレリ。
貴女は、ソレリ?
――目を開けて、私を見てほしい。


ノルヴェルトはしばし彼女を見つめたあと、黒い外套を翻し走り去った。
エルヴァーンの男はもちろん、金髪のヒュームの男も追わない。


こうしてノルヴェルトは、デルクフの薄暗い通路へと姿を消した。



「――げげっ!何よ、どーしたのよこれ!?」

ノルヴェルトが姿を消すのと入れ違いに、遅れて塔に入った三人がやってきた。
驚いて声を上げるリオ。ロエは口元を押さえ、絶句している。

彼女たちを追い越してきたダンは、通路の中央で立ち尽くす金髪碧眼の男――ローディを睨み、
『なぜお前がここにいる』という目をした後、血まみれのエルヴァーンを見て愕然とした。

パリスは霞む視界の中、ダンを見上げ、わずかに口角を上げる。
よくは見えない。だが、しかめた顔で自分を見下ろしているのが分かった。


「……あは……じゃ…おやすみぃ……」


掠れた声でそう言い、パリスの意識は途切れた。
遠くで『早く!』という友人の緊迫した声が聞こえた気がした。



<To be continued>

あとがき

とりあえず落ち着いておにちゃー!それはただの好い人止まりだヨ!!(大笑)←ぇ
おにちゃーは暴れるだけ暴れた末、勝手にテンパッて逃げていきました。
この上なく大迷惑だよ、ノルヴェルト。
そして、注目のダンテスは見事に再度出遅れましたね。