プロローグ

2004/07/20公開



真夜中のサンドリアは、中心街を離れると途端に人気がなくなる。
深夜でも動き回る商人や冒険者は、皆あの煌々とした中心地に集まっているからだ。
伝統ある石造りの家々を、満天の星空だけが静かに見下ろしている。

そんな深夜の街外れで、僕は手に汗をにじませながら息を潜めていた。
建物の影に身を潜めてどれほど経っただろう。
今日の僕は、騎士団に入団して以来はじめての“大役”を任されている。
平民騎士の身分とさよならできるかもしれないと思うと、これまで国に尽くしてきた努力は無駄じゃなかったのだと胸が震えた。

田舎に心配性の母としっかり者の妹を残してサンドリアへやってきたのは、もう二年前のことだ。
父は立派な騎士だったと幼い頃から聞かされていたから、騎士になるのは当然の未来だと信じて疑わなかった。
親友のマーシャルには「お前には無理だ」と笑われたけれど、今では僕の方が実績も上だ。
家柄の後ろ盾もなく分からないことだらけだったが、自分の力だけで道を切り開き、ようやく功績を認められはじめていた。
そして今回、その“大役”の話が舞い込んだのである。

数日前、僕は別の騎士団から名指しで召集され、所属の隊から引き抜かれた。
僕を引き抜いたのはテュークロッス・B・ゼリオン騎士団長――
頭脳明晰、戦の貴公子として名高い、あのテュークロッス様だ。
突然の召喚状を受け取った時は、良い話だとは想像できなかったのでこの世の終わりかと思った。

まだこれといって名声もない僕を、なぜ引き抜いたのか。
その理由は分からないが、テュークロッス様の側近は「才能を見抜いたのだ」とか「他の者に気づかれる前に確保したかったのだ」とか、そんな風に説明してくれた。
確かに、大きな戦争もない今の時代、僕のような駆け出しが活躍できる場はほとんどない。
遠征ではなく防衛任務ばかりで、剣を抜く機会すら滅多にないのだ。
だが、僕は訓練で誰かに負けたことは一度もない。
そういう記録を見て拾い上げてくれたのかもしれない。

――もっとも、今となっては理由なんてどうでもいい。
大事なのは、この任務を確実に遂行することだ。
これはきっと、僕の未来を切り開く大きなチャンスに違いない。

今回僕に与えられた任務は、ある男の身柄確保。
なんでも極秘の任務らしく、僕の‟引き抜き”そのものも公表されていないという。
ターゲットは相当危険な人物らしいが、僕が聞かされているのは「重罪人」ということだけで、具体的な罪状までは知らされていない。
経験の浅い僕一人では負担が大きいと気遣ってくれたテュークロッス様は、ベテラン騎士四名を任務に加えてくださった。
剣の腕には自信があるものの、場数はまだ踏んでいない僕にとって、その配慮はただただ心強かった。

「おい、そう緊張するな」

あれこれ思い巡らせていると、隣にいたリーダーのジャンティスが肩に手を置いてきた。
彼は見るからに誠実で気品のある赤髪のエルヴァーンだ。

「そんなに力まなくても大丈夫だ。俺達がついてる」

暗闇の中、彼は小さく囁き、強張って剣の柄を握りしめていた僕の手をそっと下げさせた。
恥ずかしくなってしまい、僕は返事もできずうつむいた。


僕達五人は街の一角で、男が姿を現すのを待ち構えていた。
二軒先の民家の屋根に一人、道を挟んだ向かいの建物の左右に二人、そしてこの倉庫の陰にジャンティスと僕。
細かな打ち合わせもなしに即座に配置につくあたり、四人はやはり相当なベテランだ。

“どうだ、気配は感じるか?”

真剣な表情を保ったまま、ジャンティスの低い声がリンクパールから響く。

“まだ。本当に現れるのかしら……”

今度は凛々しい女性の声が聞こえる。――この声はナナイだ。
可愛らしいタルタルの外見とのギャップには、初対面の時かなり驚かされた。

“ここにくるとは限らねぇさ。別の班のところに現れるかもしれないし、今日はどこにも姿を見せないかもしれない。とにかく、天才軍師様が俺達に『ここで待機してろ』って言ったんだ。従うしかねぇな”

“ちょっとランディ。それ、テュークロッス様を侮辱しているの?”

“まさか。俺はあの御方に忠誠誓ってんだ。侮辱する奴は俺が斬る”

ランディはいい年のヒュームだが、僕の中ではずっとナナイの弟分のようなイメージだ。
もっとも、実はナナイの方が年上なのかもしれない――昨夜、ふとそんなことを考えてしまった。

“ねぇ、ターゲットは相当腕が立つって聞いたわ。私達だけで大丈夫かしら?”

控えめでどこかおどおどした声は、エルヴァーンのカリンカ。
彼女の遠慮がちでおどおどしている雰囲気には不思議と親近感が湧く。

“そういう弱気な事言うのやめろって。白けるだろ”

“だって……何年もターゲットを追ってきたみたいな口振りだったじゃない。あのテュークロッス様を手こずらせる相手だとしたら……やっぱり……”

“日頃あんなごっつい剣ぶん回してるくせに、どうしてそんなに弱気なんだ?”

“私語が過ぎるぞ。集中しろ”

ジャンティスが静かに諌めると、カリンカははっとして短く謝った。

“俺達は与えられた任務を忠実にこなせばいいんだ。余計なことは考えるな。どれほど腕が立つ相手だろうと、罪は償わせるべきだ。残念だが、この世界は良い人間ばかりじゃない”

ジャンティスがそう言い終わった瞬間――
彼がすっと僕の前に手をかざした。

何事かとその手に視線を落とした瞬間、リンクパール越しに小さく呟く。


“………来た”


僕の心臓は一気に跳ね上がり、せっかく抜けかけていた力がまた全身に戻ってきた。
各ポジションにいる仲間たちにも、緊張が走る。
ジャンティスが鋭く見据える先を、僕はそっと覗き込んだ。


月明かりに照らされ、街の闇は静かに沈んでいる。
その闇の底から、ひとつの影がゆっくりとこちらへ歩いてきていた。

長身――おそらくエルヴァーン。
黒ずんだ外套と鎧は闇に溶けるようで、歩調に合わせて微かな音を鳴らす。
背に負った大きな鎌だけが月光を受け、怪しい銀の光をぎらりと放った。

その威圧感に耐え切れず、僕は慌てて身を引っ込め、目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

“各自、ターゲットを確認したな。次の合図で一斉に取り囲め”

落ち着き払ったジャンティスの声に、仲間たちが一斉に‟了解”と返す。
返事をしそびれた僕が焦っていると、ジャンティスが振り返り、軽く頷いてみせた。
僕も体勢を整えながら、その頷きに応える。






――長い。

合図を待てと言われてから、もう何分も経ったような気がする。
ターゲットの気配も感じない。本当にこっちへ来ているのか?
緊張で瞬きを我慢しているせいか、目がじんじんと痛くなってきた。


“――囲め”

合図と同時に、ジャンティスの背中が一気に前へ飛び出した。
反射的に僕も続く。ターゲットはすでに目の前まで来ており、仲間たちが一斉に彼を囲むところだった。

速い……!

僕は一瞬遅れながらも、なんとか男の逃げ道を塞いだ。


「ノルヴェルトだな」

男の正面に立ったジャンティスが、静かに名を呼ぶ。
僕の位置からは、銀髪に隠れた顔がよく見えない。
ノルヴェルトと呼ばれた男は、沈黙のままぴたりと立ち止まっていた。

「反逆罪および殺人の罪で、お前を連行する」

ジャンティスは重罪人を前にしても一切動じることなく、ただ冷静だった。
他の仲間たちも同様に、隙のない目で男を見据えている。

彼らの姿は僕の目にまぶしかった。
――本当に、格好いい。

ジャンティスが言ったように、この世界は善人ばかりじゃない。
平和な顔の裏に、必ず闇が潜んでいる。
けれど、人々がそれを意識せず暮らせるのは、こうした“影の正義”が働いているからだ。
目立たぬ光が、闇の中で民を守っている。

その素晴らしさに胸が熱くなり、そして自分もその一員になろうとしていることに、思わず武者震いした。


「……くくく……」

沈黙していた男が、かみ殺すような笑い声を漏らした。

はっとして改めて目を凝らすと、うつむいた銀髪の隙間から、歪んだ口元がのぞく。

「…連行するだと?殺せと命じられたのでは?」

男もまた、まったく動じていなかった。
五人に囲まれながら、武器すら構えない。

「激しく抵抗すれば、やむを得ないとのことだ。安心しろ、殺さない保証はない」

「分かるか?大人しくすれば命は助けてやるって意味だ」

ジャンティスに続き、男の背後からランディが真剣な声を投げる。

「さぁ……大人しく城まで御同行願おうかしら」

ナナイの凛とした声が、静かに響いた。


その瞬間、不意に恐怖がこみ上げた。

この男――目の前にいる重罪人は、とても強いような気がする。
カリンカの言葉が脳裏をよぎる。僕たちだけで本当に対処できるのだろうか?

握る手のひらは冷や汗で濡れ、心臓の音はうるさいほど。
息が苦しく、今にも膝が折れそうになった。

そこで、ふと――

今日、城を出る前にジャンティスが言った言葉を思い出した。


『俺達四人は寄せ集めじゃない』



「……どうやら、大人しく捕まる気はないようだな」

男を睨み据えたまま、ジャンティスは低く言い放つ。
ゆっくりと剣の柄へ手を伸ばすと、他のメンバーもそれに合わせて腰を落とし、静かに構えた。


『俺達は、裏ではちょっと名の知れたチームだ』



「………剣を抜き払う頃には――」

男が呟く。




「お前達は死んでる」


『裏での、俺達の通り名は――』



一瞬の閃き。

暗い夜の街角に、液体が飛び散る音と、重いものが崩れ落ちる音が重なる。




「向かって来なければ……殺しはしなかった……」


ぽつりと、その言葉だけが残った。



   *   *   *



レースのカーテンをそっと退けると、美しい星空が静かにこちらを見返してきた。
屋敷から少し離れた通りでは、冒険者や商人の影がチラチラと動いている。

落ち着かない胸のざわめきを紛らわせようと外を眺めたが、期待したほど心は静まらない。
眠ることはもちろん、じっと座っていることすらできない。


――その時、廊下をこちらへ向かってくる気配がした。

テュークロッスはゆっくりと扉を振り返り、叩かれるのを待つ。

――コン、コン。

「テュークロッス様、よろしいですか?」

窓辺に立っていた赤髪のエルヴァーンは、すぐに『入れ』と答えた。
静かに扉が開き、鎧姿のエルヴァーンが一人入室する。
一礼して扉を閉めると、主に向き直って姿勢を正した。


「報告します。先刻、サンドリアの裏路地にて例の五名が野良犬と接触しました」


「一人に持たせておいた連絡用リンクシェルにて報せを受け、加勢に向かうも間に合わず――」

「五名は全員死亡。野良犬はそのまま姿を消しました」


「只今、他の班が捜索を続けていますが……足取りは掴めず、とのことです」


「……そうか」

テュークロッスは途中から目を閉じて聞いており、報告が終わったところでようやく短く答えた。

「残念な結果になりましたが……どうかお気を落とされませんよう」

騎士は心配そうに主を見つめる。
力なく歩き出したテュークロッスは、疲れ切った様子で椅子に座り込んだ。

気遣うように一礼し、『どうかお休みください。失礼いたします』と言って扉へ向かう騎士。
だが扉に手を掛けたところで、テュークロッスの声が飛ぶ。

「――処理は?」

振り返った騎士の視線の先で、テュークロッスは悩ましげに目頭を押さえていた。

「はい。遺体は撤去し、痕跡もすべて排除しました。ご家族には数日後、戦死として通知を」

「……分かった。いつも感謝する」

下がっていいと手で合図すると、騎士は深く礼をして退室した。

気配が遠ざかっていく。


しばらく椅子に座ったままぼんやりとしていたテュークロッスだが、やがてゆっくりと立ち上がる。
再び窓辺に歩み、カーテンを退けて夜の街を見下ろす。



「……忘れはしない。忘れるものか」


その呟きは誰に届くこともなく、静かな闇へ溶けていった。



<To be continued>

あとがき

第二章、こちらには『思い出よ、永久とわに美しく』というタイトルがついてます。
クリスタル戦争時代が主な舞台の、シリアスな物語です。
“絶望”が好きな方はきっと《大好き》、そうでない方には《トラウマ》になる懸念が……あったりなかったりします。
残酷でグロテスクだとか、そういうことではありません。

無知な私が書くので、今回も村長ワールド全開でお届けしますが、こちらもまた、村長の代名詞となる作品です。

そしてこのプロローグは、第二章の“ほんの入口”にすぎません。
第二章第一話は、この空気とはまったく異なる、別の場所にいる“ひとりの少年”の視点から物語が始まります。
どうか、美しくも、どこまでも悲しい物語を見届けていただければ幸いです。