甥っ子と弟子
突如として、部屋の空気が変わった。
身体を捻ってノルヴェルトのことを振り返ったまま、パリスも身動きできなくなる。
時計の針の音が刻む。
最初に動いたのは、隣に腰掛けていた姉だった。
すっと、静かにテーブルから離れる。
反射的にパリスも椅子から立ち上がった。
眺めると、ヴィヤーリットは壁際の影に腰掛けているノルヴェルトの前へ。
そっと膝をつく。
ノルヴェルトは、ただ見つめ返すことしかできない。
ヴィヤーリットの黒い瞳が静かに揺れた。
その瞳が、問いかける。
伯父様を……ご存じなのですか?――と。
ノルヴェルトは言葉を失ったまま。
見開いた目で、じっとヴィヤーリットを凝視した。
線の細い、中性的な整った顔立ち。
髪と同じ黒の瞳は、尊い光を宿し微笑む。
止まっていた呼吸をわずかに震わせ、ぽつりと口から零れる。
「…………ヴィル?」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィヤーリットの肩が大きく震えた。
何が起きているのか、まだよく分かっていないのに、パリスの背筋を電流が駆け抜ける。
二人のその反応を受け、ノルヴェルトも息を止める。
小さく頷く姉。
頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それを目にしたパリスの口がわずかに開く。
しかし言葉は出ない。
ヴィヤーリットの震える指先が、目尻の泣きぼくろを拭う。
化粧だったそれは、涙とともにすっと消えた。
ノルヴェルトが震える手を床につけ、ゆっくりと膝を立てる。
開いたままの口が、かすかに動く。
立ち尽くすパリスを横目に見てから、ヴィヤーリットに視線を戻す。
長い銀髪が、静かに肩から流れ落ちる。
傷のある眉が崩れ、彼の喉から声が絞り出された。
「……私は……あなた達を、知っています」
呼吸が震える。
「フィルナードと、その妹……甥っ子たちを保護したのは……マキューシオでした」
再び、部屋に沈黙が落ちた。
その光景をテーブルから眺めていたダン。
相変わらず切れのいい思考が走る。
――会ったことがあるのか?
ノルヴェルトの師が――パリスの伯父。
兄弟のヒーロー。
最強の騎士と心優しい剣士――
瞬時に判断し、断ち切る。
最初にたどり着くべきは、自分ではない。
ダンは立ち上がると、剣を背に収めて口を開く。
「なんだか分からんが、擦り合わせしとけ」
呆然と振り返ったパリスと視線を合わせた彼は、いつものしかめっ面。
「整理できたら結論だけ聞く」
何も言えずにいるパリスに背を向ける。
後ろのソファーで寝ているトミーの肩を叩いた。
「起きろ。行くぞ」
「……むぇ…?」
トミーはまだ完全に覚醒できていないまま、のそりと上体を起き上がらせる。
目元を擦りながら何やら言っているが、構わずにダンが腕を引く。
ダンはローテーブルの上からノートを一冊手に取り、疑問を口にしている娘を連れてさっさと退室していった。
部屋の扉が閉まる音が、静寂の中で響く。
ゆっくりと、パリスは姉に視線を戻す。
ノルヴェルトの前に跪いたヴィヤーリットには、窓からの光。
彼女の頬を伝う涙が煌めく。
姉がこちらを向き、呼ぶように、手を伸ばした。
躊躇いがちに、パリスの足が動く。
ゆっくりと歩み寄り、何も言えぬまま姉の隣に屈む。
涙でいっぱいの微笑みがこちらを見上げ、細い腕がそっと肩を抱いた。
昔のように抱き寄せられる、長身の弟。
言葉の出ない口が戸惑う。
アイボリーの髪を撫で、ヴィヤーリットはノルヴェルトにもう一度微笑んだ。
広い客間の片隅に座り込んで。
涙を堪える息遣いも、時計の針の音も、
誰を急かすこともなく、穏やかな時間だけが流れていた。
* * *
材料さえ揃えれば、料理の実習をしてくれるそうだ。
ダンは、ヴィヤーリットの覚書を手に、寝起きのトミーに言ったようだ。
トミーは嬉々として覚書の中から気になる料理を選び、ダンとともに街で必要な材料を揃えた。
そして今は姉弟の家に戻り、キッチンでヴィヤーリットと夕食の準備をしている。
「機転が利くというか、処理速度が異常と言うか……」
この呟きは、彼の行動に対する、パリスの感想だ。
広い玄関ホールの脇。
パリスは使いやすい大きさに薪を割りながら溜め息をつく。
小ぶりの斧を片手に握ったまま、傍らでクリスタル合成をしているダンを横目に見る。
手持無沙汰が嫌いな彼は、自分が使う材料も揃えてきたようだ。
淡々と携帯食を作っている。
その見慣れた光景に喪失の未来がちらつき、胸がちくりと痛む。
ただちに振り払う。
「いやー……でもさ。驚いちゃった」
一旦手を止めて、パリスはどこか遠くを見つめながら呟く。
「僕、なーんにも知らないまま参戦してたんだね」
呆れたような声で苦笑いする。
「お前がちゃんと、話を聞かないからだ」
作業の手を止めないまま、ダンが淡白に言う。
苦笑いのままダンを振り返り、パリスは肩をすくめる。
「ぇえ、僕が悪いの? ごめんね???」
「あの後、話はできたのか」
こちらに見向きもしないまま、問われる。
パリスは苦笑いを浮かべていた口を一度、引き結んだ。
手元に視線を落とし、先程過ごした時間を思い浮かべる。
「……おかげで、伯父の最期が知れたよ」
ぽつりと。
大鎌を手に、銀髪のエルヴァーンは涙を流した。
フィルナードの目が見えないことに気付かず、彼を戦死させたのは自分です。――と。
姉は、懺悔する彼の手を取り、首を横に振った。
その寄り添う微笑みと頬を伝い続ける涙が胸に迫る。
パリスは、まったく記憶にない。
彼らが共有している時間は、自分には昔過ぎた。
ただ立ち会うことしかできなかった。
甥っ子と弟子のーー
自分には決して触れられない時間の、再会の涙に。
一方でパリスには、より現実的な思考が働いていた。
しばし手元をじっと見つめる。
「いや……いやいや……でも、これはダメ」
うわ言のように言葉を零しながら頭を振る。
「今は僕らだけが、受け取っておこうと思う」
言って、手元の大きな木片の角を斧で器用に割った。
パリスがぼやいているのは、この事実の取扱いについて。
伯父の妹は、つまり……パリス達の母。
近々、久しぶりに顔を合わせる予定があるパリスとしては、当然考える。
母は、真実を知る権利があるだろう。
だが――
それは今すぐにでなくてもいい。
パリスはそう判断した様子だった。
「トミーちゃんには、ダンから話してあげてよ」
いきなり、ぽんと投げられる。
ダンは横目にパリスを見る。
「ロエさんには僕が、冒険者辞める報告の時に、軽く話しておくからさ」
姉が釜土で使いやすいサイズの薪を作りながら、言う背中。
「……あぁ」
クリスタルの炎の明るさが、じわりと二人の間を照らす。
キッチンの方から、微かに明るい笑い声。
青年二人は何となく視線をそちらに向ける。
小さく息をつき、パリスの横顔に微笑が浮かぶ。
すると――ふと、何かを思い出したように、パリスが声を漏らした。
ダンが眉をしかめる。
「そうそう。伯父の話を聞いた後なんだけど……」
口元に手を当てて、パリスは少し困った顔をしていた。
斧を小脇に抱え、作った薪をじっと見つめながら言う。
「ノルヴェルトさん、黙って頭抱えたまま動かなくなっちゃって」
少しの間。
作りためた携帯食を包みながら、察したようにダンが溜め息をつく。
「まぁ……だろうな」
トミーの日常が崩れ始めた時は、ダンも相当、気苦労させられたわけで。
あの男が真実を知って地獄に沈んだことぐらい、容易く想像がつく。
パリスは心底困り果てたように頭を掻く。
「いや、気まずいよ! 僕だって! 僕ぁどうすればいいのさ」
ダンは手を止め、包みかけた携帯食を見下ろしたまま、わずかに息を吐いた。
すると今度は、キッチンの方からひと際大きな音。
途端に響く謝罪の叫び。
横目に音の方を眺めて沈黙。
それから、面倒そうに視線を上げる。
「……ヘラヘラ笑っときゃいいんじゃね」
「はい、雑〜」
ダンに対し突っ込むパリス。
その横顔は、胸のほんの片隅で――
密かに何かを惜しむような、人のいい笑顔だった。
あとがき
スピンオフ『甥っ子と弟子』でした。ちらつく別れの気配が、苦しい。
残された子達と、残して前に進むと決めた子。
フィルナード、どうか見守ってください。