傷付いた騎士
2005/06/15公開
町を出る支度を終えたノルヴェルトらは、星の瞬く夜空の下、家を出た。
先程の雨が嘘のように晴れ渡った空には、星が静かに輝いている。
戦後やっと生活が落ち着いてから、ずっと世話になっていた小さくて暖かい住まい。
セトとの思い出も数多いその家を振り返って、ノルヴェルトは口を引き結んだ。
そして町を出る際、ゲート近くで輝いている大きなクリスタルを見て、ノルヴェルトに抱かれたソレリが声を上げた。
クリスタルを示してノルヴェルトを見上げる。
「わぁー、きれいねぇ?」
ソレリは無邪気にそう言って、その光に見入った。
当然ソレリは、セトが死んだということを理解できていない。
家を出る際、彼女はセトのことを母に尋ねていた。
『セトはお友達のところに行った』
スティユのその言葉を、ソレリは疑いもせずに信じている。
母の悲しげな気配を察し、その友達の家はとても遠いのだと少女は思ったようだ。
何度もしつこく尋ねるソレリを見かねて、ノルヴェルトは無垢な少女を抱き上げてスティユから離した。
そうして、ようやくソレリがセトについて質問することに飽きてきたところだった。
「ねがいごとしてるの?」
大きなクリスタルを見て、ぱっちりとした青い瞳で興味深げにノルヴェルトに尋ねるソレリ。
ぼんやりと青く輝くそのクリスタルの周りには人々がおり、皆手を組んで祈りを捧げてるようだった。
その人々の格好を見ると、一般の民にしては少々武装している。
最近になって少しずつ普及し始めている、《冒険者》という者達だとノルヴェルトは気が付いた。
詳しいことは知らないが、《冒険者》というのは自分の意志で行動できる国に認められた戦士達のことらしい。
種族も家柄も関係なく、自分の力でこれからの世界を守っていこうと志す者達だ。
今、世界では戦後の疲弊したアルタナの民の力を回復させるため、各国が《冒険者》という職業を支援していく方針で動き出している。
サンドリア、バストゥーク、ウィンダスの三国は各々軍を所持している。
だが、その《冒険者》という者達の方が小回りも利くし何かと使い勝手が良いに違いない。
近い将来、《冒険者》が力を持ち、世界に欠かせない存在になる時代が訪れるかもしれない。
そんな説も囁かれているようだが、現在はまだまだその数は少なかった。
ノルヴェルトは祈りを捧げているその者達を眺めると、言い様のない感情が胸に渦巻いた。
戦後突然起こるようになった、女神の奇跡。
あんなにも勝手で自己満足な奇跡に、なぜ人は頼ることができるのだろう。
それほどまでに人とは弱いものなのか。
ノルヴェルトは顔をしかめてクリスタルを睨み付ける。
目をきらきらさせて、祈る人々を真似ているソレリの身体の向き替えるように抱え直した。
「……おにちゃは、ねがいごと、しないの?」
祈りを捧げている者達はノルヴェルトと同じように剣を持っている。
それを見ての疑問なのか、ソレリが小首を傾げて尋ねた。
そもそもあの冒険者たちは、何を願っているのだろうか。
己の身の安全?
愛する人の幸せ?
世界の平和?
どれもこれも感情を乱すようなものではないが、なぜだか心の奥で憤りの痺れが走る。
ノルヴェルトは前を歩いているヒュームの夫婦に視線を向けると、少女の問いに答えた。
「自分の願いくらい、自分で叶えるよ」
* * *
喉を枯らして呼吸をしながら、ノルヴェルトは何度も後ろを振り返りながら走った。
血の滴る手を押さえた状態で薄暗い路地裏を進み、奥にある古びたドアを押し開けて中に転がり込んだ。
そのまま脱力したいのをぐっと堪えてすぐさまドアを閉める。
「ノルヴェルト……!」
苦しげに息を付きながらドアノブを掴んでじっとしていると、すぐさま屋内から声がした。
その静かな驚愕の声を発して駆け寄ってきたのはヒュームの女性、スティユだ。
心配そうな顔をしている彼女を振り返りもせずに、ノルヴェルトは苦しげに声を絞る。
「この町はっ……もう駄目だ! 襲撃の間隔がだいぶ狭まってきてる! ここを突き止められるのも時間の問題ですっ」
ひどく緊張した面持ちでドアの向こう側に意識を馳せている青年。
その手からは、ぽたぽたと音を立てて床に血が滴っている。
そんな彼を見つめ、スティユは無言の内に彼をドアから引き剥がした。
荒い息をついているノルヴェルトは驚きの表情をするが、彼女は何も言わないまま回復魔法のケアルを詠唱した。
あの日突然始まった逃亡生活を乗り越えるため、彼女は白魔法を少し勉強し始めた。
ノルヴェルトの手の甲に刻まれた切り傷はゆっくりと塞がり、出血が止まる。
スティユはそれを確認すると、ノルヴェルトの手を引いて彼を近くの椅子に座らせた。
そしてハンカチで血まみれの手を優しく拭く。
何も言わない彼女を呆然と見下ろすが、何だか彼女に責められているような気分になった。
ノルヴェルトはまだ興奮冷めやらぬ頭で必死に言い訳を紡ぎ出す。
「今回も撒こうと思ったんだ! でも、人数が多くて……っ」
一点を見ていることのできない目は落ち着きなく、あちらこちらに視線を投げる。
動転している思考の中から先程の出来事の記憶を引っ張り出し、断片的なそれを大雑把に頭の中で繋げていく。
もうここには戻って来られないかもしれないと感じた瞬間の――あの凄まじい恐怖。
そして、咄嗟に取った自分の行動。
ノルヴェルトは浅い息をつきながら、自分の塞がった傷口を見つめて恐る恐る言う。
「……一人……斬ってしまった…」
今まで大体二人だった刺客が、今日は四人だった。
人通りの多い場所を通って撒こうとしたのだが先回りをされ、突破するために一人を斬った。
刺客の騎士を斬るなぞ今までも幾度かあったことだ。
今回が初めてではない。
しかし、今回は自分の剣が思い切り騎士の胴体にめり込んだ。
――殺してしまったかもしれない。
がたがたと震え始める己の身体に恐怖して、ノルヴェルトはぎゅっと拳を握った。
「……ごめんなさい」
ノルヴェルトの荒い呼吸が徐々に泣き声に似てきた頃、スティユが青年の手を握って呟いた。
「明日は、私が外に出るわ」
仰天してノルヴェルトが顔を上げると、彼女はその疲弊して少しやつれた顔に笑みを浮かべていた。
酷く優しい笑顔だった。
「そ……俺が行きますよ! 危険過ぎます! 俺なら大丈夫ですから! ほらこれ!」
叫びながら慌ててノルヴェルトは懐から小包を取り出し、スティユの手に押し付けた。
調達してきた食料。
逃亡生活が始まってから、必要物資を調達するために外出するのはノルヴェルトの役目になっていた。
ノルヴェルトが自ら言い出したことである。
マキューシオとスティユは、いなくなることを許されないと思ったから。
幼い少女ソレリには、絶対に欠けてはならない存在だから。
「……ありがとう……ノルヴェルト」
そう礼を言うスティユの顔は、見るからに悲しそうだった。
ノルヴェルトは自分の名前を呟かれ、その音色が疲れ果てていたことが切なかった。
視線を落とすと、血を拭いた跡のある、傷の癒えた自分の手がある。
瞬く間に先程の恐怖が再び湧き上がってくる。
体が震え始める前に、ノルヴェルトは慌てて腰を上げた。
「二人は奥ですね?」
そう尋ねながら、スティユの返事は待たず奥の小さな部屋に向かって歩き出した。
すると後ろから名前を呼ばれる。
足を止めて振り返ると、スティユが申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「マキューシオも……あなたにとても感謝しているはずよ」
夫の気持ちを代弁する彼女を見て、ノルヴェルトは黙って頷くことしかできなかった。
そんな顔で言われたら何だか悲しくなるだけだ……と、思った。
部屋の扉をノックして開けると、幼い少女が子犬のように駆け寄ってきた。
「おにちゃ~おかえりさ~い!」
お気に入りのぬいぐるみを抱きしめている細い腕は、透き通るように白い。
それは、ずっと日の下で遊ぶことができずにいることを物語っていた。
頬と小さな唇だけがほんのりと赤い色白の少女は、ノルヴェルトの手に自分の小さな手を伸ばした。
手を繋ぎたいのだと理解した瞬間に、ノルヴェルトはハッとして手を引っ込めてしまう。
血を拭いた跡のある手で、少女を汚すわけにはいかない。
「……ただいま、ソレリ」
「あのね、とってもダンスがじょうずなの!」
今のこちらの行動に少女は傷付くのではと不安だったが、少女は気にする様子はなかった。
目をきらきらさせて、はにかんだ笑みを浮かべている。
「おにちゃーにもみせてあげるけど、ママがさきねぇ」
ぬいぐるみを掲げてにこにこと笑いながら言うと、ソレリはノルヴェルトの横をすり抜けていった。
セミロングの髪を弾ませ、母親を呼びながら駆けていくソレリ。
そんな少女を見送ってから部屋の中に目をやると、幼い娘を優しげな目で見送っているマキューシオがいた。
その片腕のヒュームは、窓のない狭くて薄暗い部屋の奥で椅子に腰掛けている。
ソレリが駆けていった方をじっと見つめたままの彼に少し緊張しながら、ノルヴェルトはおずおずと部屋のドアを閉めた。
ドアを閉められてしまったマキューシオは、ゆっくりとした動作で自分の足元に視線を落とす。
そんな師の姿を見て、ノルヴェルトはその場に立ち尽くしたまま黙って俯いた。
話してくれなくなった。
逃亡生活を続ける内に、マキューシオは徐々に言葉を発さなくなっていった。
簡単なことは口にするものの、自分から何か語ることは今ではほぼなくなり、スティユとノルヴェルトはそんな彼の様子にとても戸惑っていた。
彼が今、何を考えているのか分からないという恐怖。
そしてノルヴェルトが一番恐怖していることは――
師から、名を呼ばれていないということだった。
あんなにもたくさん、名前を呼んでくれた人だったのに。
彼にこの名を呼ばれるだけで、恐怖や迷いから幾度と無く救われてきたのだ。
それなのに、もう長い間彼に名前を呼ばれていないということに先日気が付いた。
名前を呼ばれないというのは、これほどまでに恐ろしいことだったのだろうか。
ノルヴェルトは底なしの恐怖を感じながらも、懸命に彼の傍にいた。
傍にいても、無情にも彼が口にする名前はノルヴェルトのものではなく。
妻や娘を呼ぶ彼の声は、ノルヴェルトの心を何度も傷付けた。
こんな状態で、騎士から襲撃されながらも親子のために尽くし続けることができるだろうか?
どんなに辛いことがあっても、マキューシオの言葉で何度でも立ち上がることができる。
そう信じていた。
マキューシオから言葉がなくなるなんて……。
そんなことになるとは思ってもみなかった。
彼はなぜ、話さなくなったのか。
今、何を考えているのか。
『分からない』というのは、死よりも恐ろしい地獄だとノルヴェルトは思った。
窓のない部屋の空気が重く、呼吸の音さえ遠く感じられた。
このままだと永遠に沈黙が続きそうだったので、ノルヴェルトは意を決して口を開いた。
「マキューシオ。もう、バストゥークも出た方が良いかもしれません」
勇気を出して言葉を放っても、マキューシオの身体はぴくりとも反応しなくて。
「明日にでもジュノに向かいましょう」
その姿を目にしただけで、泣き出してしまいそうだった。
怒っているのだろうか?
それは、自分が騎士の刺客達を斬るから?
俺は一体、どうすれば良いんですか?
ノルヴェルトは振り絞った勇気も打ち砕かれ、再び視線を落として締め括りの言葉を呟く。
「……後で、スティユにも提案してみます」
そう言ってノルヴェルトは踵を返しながら、最後にちらりとマキューシオに視線を向けた。
すると――彼の横顔に微笑が浮かんでいるのに気が付く。
驚いて動きを止めると、マキューシオの口から小さな笑い声が零れた。
「……マキューシオ……?」
恐る恐る問い掛けると、彼が口を開く。
「……私は殺して生き残り、フィルナードは護って死んだ。……皮肉なものだな…」
ノルヴェルトは大きく目を見開いた。
己の足元を見つめたまま、マキューシオはぼんやりと呟く。
「結局私は、何のために剣を振るっていたのだろう……」
窓のない暗い部屋の静寂に、そんな問いが溶けて消える。
虚ろな表情の彼は、そのまま穏やかな口調で言葉を続ける。
「私は……理解できなかったんだ、戦争というものが。何の意味を成すものなのか。……昔はたくさんの人を殺したよ。アルタナの民の異種族を、まるで獣人を殺すように」
マキューシオの言葉がゆっくりと続く。
床を踏む音がやけに大きく響いた気がして、ノルヴェルトは思わず足を止めかけたが、それでも数歩、彼に近付いた。
「はじめは祖国のためだと思っていた。それが正しいと思っていたんだ」
マキューシオが話しているのは、クリスタル戦争が始まる前のことのようだ。
アルタナの民の間で争いが繰り広げられていた、そんなに遠くはない過去の時代の話。
淡々と、独り言のように語るマキューシオの口調は一定で乱れることは無い。
「……しかし、事実はどうだっただろう? 獣人との戦い……クリスタル戦争に突入すると、皆一斉に矛先を獣人へと切り替えた。簡単に剣を向ける標的を替えたんだ。にも関わらず、共に剣を並べることになった異種族への偏見は捨て切らなかった」
もう少しマキューシオの傍へ寄ると、彼がゆっくりと視線を上げた。
棚の上の壁に固定してある二つのものを見つめる。
布に包まれたままの剣と、大鎌だ。
ソレリが誤って触れたりしないように、あのような場所に置かれている。
マキューシオの声は低く、淡々としているのに、どこか切迫していた。
「なぜだ? 相手を替えたのなら憎む必要はない。それに、協力して立ち向かうという決断ができたのなら、それまでの戦いは何だったのか。今まで自分が殺めてきた者達は何だったのか?」
――人は、憎しみを手放したがらない不思議な生き物だ。
そんなことを呟く彼の表情は、やはりぼんやりとしていて、感情が読み取れない。
「……私は確信のない剣など振るえなかった……。だから私は、己の剣の意味を見出すために軍を抜けた」
微かに失笑しながら、彼は残った片手で自分の頭を支えた。
「アルタナの民の血で得たものすべてが呪わしく思えたんだ……っ……殺戮の勲章など……」
ノルヴェルトはマキューシオが突然語り始めた衝撃的な内容に息を呑む。
それが、マキューシオが軍を抜けた理由か。
そしてノルヴェルトは、昔、仲間達が言った言葉の意味を理解する。
『彼には、自分の命が見えていないのよ』
マキューシオは……
『あぁ、マキューシオは……何て言うか、命にシビアなんだ』
マキューシオは……
「……私は…………奪い過ぎた……」
――神よ。
なぜこの人をこんなにも苦しめるのか?
彼が過去にどんな酷い行いをしてきたのか、詳しいことは知らない。
しかし、自分は出会ってからずっと見てきたのだ。
彼が成すことを。
あんなにも愛して。
あんなにも耐えて。
あんなにも慈しんで。
あんなにも傷付いて。
彼は確かに、己の剣を捧げる道を見出していたのだ。
歩むべき道を切り開いて、多くの人々を導きながら、眩しいほどに。
それなのに
たった一度
再び罪を犯しただけで。
ノルヴェルトは悲しみも怒りも映し出していないマキューシオの横顔に見入った。
空っぽになってしまったかのような、希望の人。
徐々に滲む彼の姿に、ノルヴェルトは泣き出しそうになる己の顔を乱暴に手で擦った。
当然、マキューシオのことを思って溢れてきた涙だったが、何よりも嬉しかったのだと思う。
口を閉ざしていたマキューシオが今、こんな話を自分に聞かせてくれたことが。
まだ大丈夫。きっと大丈夫。
ノルヴェルトは目頭の熱くなった顔を俯かせ、震えた小さな溜め息をついた。
「君には……今まで幾度となく支えられてきたな」
しばしの沈黙を置いて放たれた言葉に、ノルヴェルトはどきりとした。
そっと窺うと、マキューシオはやはりこちらではない何処か一点を見つめている。
「この感謝の気持ちは、言葉では言い尽くせない」
――そんな、それは俺の方です!
咄嗟に口をついて出そうになったが、なぜか声には出せなかった。
「戦場で君に出会った時は、まさかこんなに長い付き合いになるとは思わなかったよ」
懐かしむように目を細めるマキューシオの横顔。
「ここまで来れたのは君がいたからだ。これからもずっと……私の良き友として居続けてくれないか」
ノルヴェルトは自分が望んでいた以上のことを口にしてくれるマキューシオにただ驚いた。
まったく予想だにしていなかったせいか、少し違和感を覚える。
しかし、実際はそんなこと気にならないくらい、嬉しかった。
――だが。
「……なぁ、ドルスス」
その一言で、部屋の空気が音もなく崩れ落ちた気がした。
彼が呼んだ名前に、ノルヴェルトは耳を疑った。
状況が理解できず、自分でもわけが分からない内にあたりを見回す。
当然、彼が呼んだ人物の姿はなく、ノルヴェルトは一気に手足が冷たくなるのを感じた。
目の前の椅子に腰掛けているマキューシオを見つめ、何も言えぬまま首を左右に振る。
「…………ドルスス?」
不思議そうな声で呟いて、マキューシオがこちらを向く。
――見ないでっ!!
ノルヴェルトは心の中で精一杯叫んだ。
「……君は…?」
指先の感覚がなくなり、足元がふらついた。
ノルヴェルトはまるで見えない何かに突き飛ばされたかのように背中をドアに打ち付け、声も出せぬまま部屋から逃げ出した。
胸が苦しい――息が詰まって呼吸ができない!
ふらふらと部屋から離れると、前方にソレリを抱き上げたスティユが呆然とこちらを見つめていた。
「ノルヴェルト?……どうしたの、顔が真っ青よ?」
至極心配そうに言いながら歩み寄ってくるスティユ。
「…………マキュー……シオが……」
ノルヴェルトが消え入るような声で辛うじて発音する。
見る見る内にスティユの顔色が変わった。
ぬいぐるみを抱き締めているソレリを床に下ろし、悲鳴じみた声で夫を呼びながら部屋に入っていく。
「――マキューシオ!?」
「……あぁ、スティユ」
「何かっ、あったの?」
「いいや? 別に……」
「それより、ドルススを見なかったか?」
「それと……お客さんが来たようだけど、お茶は出したのか?」
開け放ったままのドアの中から漏れてくる会話に殺されそうだと思った。
ノルヴェルトはその場に膝を折ると、愕然と虚空を見つめた。
「おにちゃー?」
小さなヒュームの少女がきょとんとした顔で、青年の顔を覗き込む。
「……パパにおこられちゃーぁのー?」
「じゃあソレリが、いいこいいこしてあげるっ」
ソレリは自分の抱いたぬいぐるみの手を取ると、背伸びしてノルヴェルトの頭を撫で始める。
あまりにも無垢な声が、胸の奥をえぐった。
「いいこ、おにちゃーはいいこねぇ」
「おにちゃーはいいこねぇ」
その日を境に、マキューシオはもういない仲間達の名前ばかり呼ぶようになった。
あとがき
少女はまだ、何も失っていないと思っていました。物語は、静かに次の局面へ向かいます。