微笑んで、君

第二章 第十四話
2005/05/14公開



「パパ、パ~パ~!」

軽いながらも騒々しい足音を立てて、ソレリがマキューシオのいる部屋に駆け込んできた。
物静かに本を読んでいたマキューシオは、ふと顔を上げて娘を振り返る。
幼い娘はその小さな手にぬいぐるみを抱きかかえ、喜色満面で駆け寄ってくる。

「ママがね、くれたの!」

そう言って幼女が見せびらかしてきたのは、兎のぬいぐるみであった。
小さなソレリが抱かかえていると結構な大きさに見える。
心底嬉しそうな彼女に表情を綻ばせると、部屋のドアのところにスティユが現れる。
大喜びしているソレリを眺める彼女もまた、嬉しそうな顔をしていた。

「良かったね、ソレリ。名前を付けて大事にしてあげるんだよ」

ソレリは『うんっ』と深く頷いて、ぬいぐるみを高く上げてその場で回った。
回りながらよたつくソレリを危なっかしそうに見つめてスティユが笑う。

クルクルと回って笑っていたソレリが、ぬいぐるみを持ち上げた手を下ろして首を傾げた。

「……ねぇ、ママ~? このこはおんなのこ? おとこのこ?」

「あら、別に考えてはいなかったけど……男の子でも、女の子でもいいわよ?」

思い掛けない質問を受けたスティユは、眉を開いてそう答えた。
しかし、ソレリはどうも釈然としないのか、ぬいぐるみを見つめて唸っている。
口を尖らせて本気で悩んでいるソレリを見て、マキューシオは楽しげに笑った。

「それなら、男の子でも、女の子でもいい名前を付ければいいんだよソレリ」

穏やかな口調でそういうと、ソレリは青い瞳をぱっちり開いてマキューシオを見た。
ぎゅっとぬいぐるみを胸に抱いて『うん!』と表情を明るくする。

「おにちゃ~ときめる! ソレリ、おにちゃ~とがいいの」

ぬいぐるみの頭を小さな手でぎこちなく撫でながら、ソレリはスティユを見上げた。
『おにちゃはどこ?』と目が尋ねている。
スティユははっとして小さく声を漏らすと、少し困った顔をして言った。

「お兄ちゃんは今、セトとお出かけしてるわ」

「ええ~」

幼さゆえに棒読みに聞こえるソレリの不平の声。
しょんぼりとするソレリを、マキューシオが手招きして呼び寄せる。
彼は自分の膝の上にソレリを抱き上げた。
そして、ぬいぐるみの頭をぽんぽんと撫でる。

「それじゃあ、帰ってくるまでに名前をつけて、帰ってきたらお兄ちゃん達に紹介してあげなさい」

ゆっくりとした口調でそう提案するマキューシオを、ソレリは首を捻って見上げた。
青い目をぱちくりしている娘を見下ろし、にこと微笑むマキューシオ。
ソレリは父が言ったことを少しずつ理解し、やがて一度深く頷いた。
そして満面に笑みを浮かべると、柔らかくて肌触りの良いそのぬいぐるみをきつく抱き締めた。



   *   *   *



晴天の空の下、ラテーヌ高原は今日も緑が美しい。
さわさわと草木を撫でる風は、少し肌寒く感じた。

『新しい市場を開拓しようと思ってさ、ラテまで視察に行くんよ』

昼食を取り終えるなり、エルヴァーンの青年をじっと見つめながらセトが言った。
視線で同行を求められたノルヴェルトは渋々それを承諾する。
そのやり取りがあったのはもう数時間前のことだ。

「う~ん……ロンフォールの森と大して変わらないなぁ」

一人で仕留められそうな、おいしい獲物はいないものかとセトは眉を寄せて唸っている。
ラテーヌ高原に入ってからだいぶ歩き回ったが、彼女が納得できるものは見つからなかったようだ。
狩人らしい軽装で背中に弓を携えたセトは、立ち止まって手を組むと『ん~~っ』と大きく伸びをした。

「……うん、もう大体分かった。そろそろ帰ろうか、ノルヴェルト」

数歩後ろで突っ立っている銀髪のエルヴァーンを振り返る。

――と、セトがノルヴェルトの呆れた表情を見た瞬間、不意に近くの草むらから一匹の兎が顔を出した。
二人は同時にあっと目を見開く。

現れた獲物にセトは即座に反応するかと思ったが、彼女はぐっとこらえて頭を抱えた。

「うおぁ駄目駄目!うち今、兎とは休戦中なんよ!」

イヤイヤをするように兎から目を逸らし、ロンフォールに戻るべくさっさと歩き出すセト。
ノルヴェルトは疑問符を浮かべて彼女の後を追った。
軽く駆けてセトの隣りに並ぶと、ふと、数日前のセトとソレリの会話を思い出した。

「あぁ、今、兎を手懐けてるんでしたっけ」

「手懐けてるって、何か言い方悪くない?……そーそー、まぁここの兎じゃないんだけどさぁ」

『ぶっちゃけ別んとこの兎は普通に狩ってるしね』とさらりと言う。
それを聞いて苦笑するノルヴェルト。

「……それじゃ休戦じゃないじゃないですか」

「兎狩りは最低限にしてんよ~。こっちだって稼がないといけないしさ」

早足だった歩調を落ち着かせてセトは一つ溜め息をついた。
そして、隣りを歩くエルヴァーンの青年を横目に見る。
訝しげに見下ろしてくるノルヴェルトの背中に視線を止め、そのまましばしじっと見つめる。

「……ノルヴェルトもさ、いつまでもそんなもん背負ってないで、狩人にでもなったらどうよ?」

彼女の言う『そんなもん』とは、ノルヴェルトが今日も背中に携えている両手持ちの剣のこと。
ノルヴェルトは一瞬ギクリとしたような顔をして口を結んだ。

「前から狩り教えても、な~んか乗り気じゃないみたいだったけど、素質はあると思うんだよね。ほら、あっちにいる兎相手にちょっとやってみ」

そう言ってセトは視線を落として黙っているノルヴェルトに弓を差し出す。
差し出した手と逆の手で矢を取り出しながら『ほら』と弓を受け取るように促す。
ノルヴェルトは離れたところにいる兎を横目に見ると、顔をしかめた。

「……俺は……いいです」

顔を背けたままトーンの低い声で言うノルヴェルト。
セトは予想だにしなかった彼の反応にきょとんとして、弓を持った手を下ろす。

「兎を追っていると……また大切なものを失うような気がして、嫌なんです」

ノルヴェルトは家族が獣人に襲われたあの時、兎を捕って帰った時だった。
家族のためにやっとの思いで捕った兎を持ち帰ったが、家族がその兎で空腹を紛らわすことはなかった。
あの時の後悔の念が彼の中に残っているらしく、そのせいでノルヴェルトは兎が苦手だった。

そんな昔のことはさっぱり忘れているセトは、彼が何を言ってるのかよく分からない様子で『ふぅ~ん……』と適当な声を漏らす。

「ま、ノルヴェルトがヤダってんなら無理にとは言わないけどっ。……しっかしねぇ、狩人っての何気に結構儲かるんよ。にっしっし」

何となく意地汚い声でセトは笑った。
ノルヴェルトはそんな彼女を見下ろして、色々と抱え込んでいる自分が馬鹿らしく思えた。
自分では至極真剣なことを言ったつもりだったが、セトにとっては儲け話と同レベルなことだったらしい。

昔からずっとセトには子ども扱いされてきたが、今や自分よりもセトの方が子どもっぽいのではなかろうか。
ノルヴェルトはそんな疑問を抱き、無意識にふぅと溜め息をついた。


話している内にラテーヌの拓けた土地から段々と山間に入り、ついにロンフォールまで戻ってきた。
頭上の空が徐々に木の葉に遮られてきたことに気がついてふと見上げる。
それから、先程からにまにましている隣りのミスラに視線を戻した。

「もう、だいぶ資金は貯まったんですか?」

「オーイエス!今年中には出発できんじゃ~ん?」

機嫌の良い声で答えるセトの尻尾は、彼女の感情とリンクして軽やかに揺れている。
鼻歌を歌い始めるセトを見て、ノルヴェルトは小さく溜め息をついて視線を足元に下げた。


セトがあの家からいなくなったら、寂しくなる。

ソレリもとても寂しがるに違いない……などと考えて、思わず苦笑が浮かんだ。

するとそこで、急にセトの鼻歌が止まった。
不思議に思って視線を上げる。
ノルヴェルトと同じように足元に視線を落としたセトが大きな溜め息をつく。
先程の浮かれた表情が少し曇っているように見えて、ノルヴェルトは眉を寄せる。

「……うちさぁ、ミスラの故郷に帰ろうと思うんよ」

何の前触れもなくセトが話し始めた。
ぶらぶらしていた手を後ろで繋いで、口調は落ち着いている。

「ま、自分が何処の誰の子なのかも知らないんだけどさ。行ってみるだけ行ってみようかと」

呆然と見下ろしているノルヴェルトを見上げてにかっと笑う。

ノルヴェルトがその言葉に対してどう返そうかを悩んでいると、セトはロンフォールの森を眺めながら続けた。

「んでさ、うち……故郷帰る前に、一度ウィンダスに寄ろうと思ってんだ」

さわさわと優しい風が木々を撫でていく。

「ワジジがさ……昔、ワジジがね? ウィンダスのこと何度か話してくれたんさ。緑がいっぱいで綺麗だーとか、広くて開放的だーとか」

あの小さな魔道士のことを思い出しているのか、セトは懐かしむように笑っている。
もう終戦してだいぶ経っているし、ワジジが話した美しいウィンダスは姿を戻しているだろう。

「だから見に行きたいんだよね、ワジジが自慢げに話してたウィンダスの街を。んで、ワジジの言った通り綺麗なとこだったって、報告してやるんだ」

微笑んではいるものの、色々と何か考えている目でセトはそこまで話した。

そういえば、彼女がこんなにワジジの名を口にするのは久し振りだとノルヴェルトは思った。
ワジジが死んで一番ショックを受けていたのは他でもないセトだ。
しかし、その彼女が今こんな話をしているということは、彼女が彼の死を乗り越えた証拠なのかもしれない。

そんな彼女が強く輝いて見えると同時に、ノルヴェルトは自分の未熟さを痛感した。
言葉が出ず、ただ黙って歩いているノルヴェルトをセトがゆっくりと見上げる。
そして躊躇いがちに、彼女は言葉を紡いだ。

「……で…さ、ノルヴェルト。……良かったら」

一緒に。


――セトがそう口にした瞬間。
静かな森に男性の悲鳴が響いた。

はっとして目を見開くと、二人はお互いに顔を見合わせて空耳ではないことを確認する。
すぐさま辺りを見回して悲鳴の主を探すーー
前方の坂の上から一人の男が転がり降りてくるのが見えた。

大きな荷物を背負ったエルヴァーンで、その身なりからして商人だろう。
必死の形相で逃げてくるその商人を追って丘の向こうから現れたのは、短剣を持ったオークだった。

「ヤバ……ッ!」

セトがその状況を見て言葉を発した瞬間、ノルヴェルトが無言のまま駆け出した。
猛然と飛び出したノルヴェルトに驚いて、セトは一瞬出遅れる。

隣にいたはずの青年は翼でも生えているのかと思うほどに、一瞬で男性の元に駆けつけていた。
背の両手剣を抜き、だんっと大きく跳躍する。
へたり込んでいる商人を勢いよく飛び越え、そのまま一気に獣人を斬り付けた。
すでに致命傷であろうドッという鈍い手応えを感じつつも、ノルヴェルトは次いで大きく剣を振りかぶる。
そして渾身の力を込めてオークの首を跳ねた。
頭が飛び、残された体が力なく傾いたところでバッと血が噴き出しノルヴェルトにかかる。
どさりと倒れるオークを見下ろしているノルヴェルトの後ろで、尻餅を付いた商人が引きつった声をあげた。

――ほんの数秒の出来事だった。

出遅れたセトが終わった頃に追いついて、商人に無事かと尋ねる。
動揺した様子で『大丈夫だ』と答える商人。
セトはひとつ息をついて、すぐにノルヴェルトに向いた。

ノルヴェルトは、剣を握り締めたままじっと足元を見つめて突っ立っている。
静かに呼吸を乱している彼を、セトは遠巻きに恐る恐る覗き込んだ。

「……ノルヴェルト……?」

そっと歩いて近付くと、大量に返り血を浴びた青年は悲痛な表情を浮かべていた。

セトにはその表情が泣き出しそうな子どものものに見えた。
今にも壊れてしまいそうなノルヴェルトの姿がとても哀れで、ずきりと胸が痛む。
彼を抱き締めてやりたいと思ったが、背後から遠慮がちの声が聞こえた。

「あ……ありがとう、助かったよ」

振り返ると、商人はこちらの様子を窺いつつも街の方向へと少しずつ足を進めていた。
街まで同行しようかと尋ねたが、商人は苦笑して首を左右に振る。
立ち尽くしているノルヴェルトを一瞬盗み見たので、彼に鬼気迫るものでも感じたのだろう。
二人に対して何度か会釈した後、商人は逃げてきた道を足早に戻っていった。


大きな荷物を背負った商人が見えなくなったのを確認して、セトは溜め息をついた。
そして突っ立ったまま動かないノルヴェルトに歩み寄り、そっと背中に触れる。

「……ノルヴェルト」

もう一度覗き込むと、ノルヴェルトは未だに苦悶の表情を浮かべていた。
哀しそうな、何かに絶望したような、そんな顔。

彼は一体、何に絶望しているのか。
そんなこと、戦後のノルヴェルトを見守ってきたセトには容易く察しが付いた。

「……っはぁ~……ほら、もぉなんて顔してんだよー」

呆れたように言うとハンカチを取り出して、乱暴にノルヴェルトの顔を拭いた。
ぐいぐいと手荒に拭くセトの手からノルヴェルトが少し身を引く。
むっとしたセトは『自分で拭けっちゅーねん!』とハンカチを青年の顔に投げつけた。

「ワジジが言ってたように、やっぱノルヴェルトって暗いよ! 暗い暗い!!」

『あーヤダヤダ』と肩をすくめて言うと、セトはノルヴェルトの腕を掴んで歩き出す。

「ほら、あそこの川で上着だけでも洗ってな。そんな格好で帰ったらソレリが怖がるからね、着替え持ってきてやんよ」

引っ張られるノルヴェルトは慌てて剣を背中に収めて言葉を返す。

「っ……分かりましたよ」

遠慮がちにセトの手を振り払った。
するとセトがくるりと振り返ったので、ノルヴェルトは無意識に身構える。
セトは意外にも感情的な顔はしておらず、そこを拭けだの何だのと早口に指図する。
ノルヴェルトが言われるままに渋々とその指示に従うと、セトは満足したように頷いた。
そしてまたくるりと向きを換えて、木々の向こう側に見えている川を目指して歩き出す。

ついて来いと言っている背中を見つめ、ノルヴェルトも無言のまま歩き出す。


「……もう、うちらしかいないんだよ」

前を歩くセトが唐突にそんなことを言った。
ノルヴェルトは顔を上げる。
前だけを見つめてさっさと歩く白髪のミスラの後ろ姿に眉を寄せた。

「でも、『うちらがいる』んだ」

彼女は自分に何かを諭そうとしている。
そう感じたノルヴェルトだったが、その時はなぜか黙って聞いていることができなかった。

「……俺に、何ができるんですか?」

少し掠れた、消え入りそうな声で呟く。

「こんな俺に」


戦争を生き長らえたこの命、マキューシオに捧げようと心に決めていた。
しかし、一体自分に何ができるのだろう。
ノルヴェルトはここにきて弱気になっていた。

セトはほんの少しの沈黙を置いてから、足元に転がっていた小石を蹴っ飛ばす。

「バッカだねぇ。ノルヴェルトのそういうとこ、昔からウザイと思ってたんよ」

そう言う彼女の声に、いつものふざけたような雰囲気は感じられない。

「自分にプレッシャー掛け過ぎて、いっつもペシャンコじゃんか。ペッシャンコのあんたに期待しろっつー方が無理だっちゅーねん」

そこまで言ったところで川の辺に辿り着き、セトがノルヴェルトを振り返った。
彼女の真っ直ぐな瞳がエルヴァーンの青年を見上げる。

「マキューシオを尊敬してんのは分かるけどさ、マキューシオを目指そうなんて思わないよーに。ぶっちゃけうちとしては、ノルヴェルトにゃあんな人間味のない人間にはなってほしくないし。まぁ……なろうとしてもなれないと思うけど、とにかくそういうのやめてよね」

人間味の無い人間。

その言葉を聞いた時、憤りを感じたが、それと同時に少し納得してしまった。
しかし、自分の大切にしてきたものを否定された気がしてやはり怒りが込み上げる。

「俺はただ――マキューシオから受けたたくさんの恩を返していきたいだけだっ」

「だったら、いつまでもクヨクヨしてんなってのー! 苦しそうに守ってくれるより、一緒に楽しく歩いてくれる方が嬉しいに決まってんじゃん!」

口調を荒らげたノルヴェルトに対してセトが叫び返した。
その言葉に一瞬たじろいだノルヴェルトの隙を突いて、彼女は思い切り青年を突き飛ばした。

「頭を冷やせ、ペシャンコエルヴァーン!!」

「――いっ!!?」

ドーンと勢いよく突き飛ばされたノルヴェルトは、そのまま思い切り川に転倒した。
さっと素早く水しぶきを避けたセトは、盛大に転倒して川に尻餅をついているノルヴェルトを見下ろす。


「戦争は終わったんだよノルヴェルト、もう怖くないよ! もう戦わなくていいんだ! あとはみんなで楽しく生きていくだけじゃん! あの頃は笑えなかったかもしれないけど、なんで戦争が終わった今でもあんた笑ってないの? もったい無いじゃん! それってすごくもったい無いことじゃん!?」


腰に手を当てると胸を張って高らかに言うセト。
ずぶ濡れになったノルヴェルトは怒ることも忘れて、呆気に取られたように彼女を見上げていた。


やがて、乱れた髪から水滴を垂らしたノルヴェルトは黙ったまま俯いた。
ふんっ、と胸を張って彼を見下ろしていたセトはぴくりと片方の眉を吊り上げる。
訝しんで様子を窺うと、ノルヴェルトの肩が小さく震えていることに気が付いた。
それを見てむっとするセトだったが、不意に、俯いたノルヴェルトの篭った声が聞こえる。

「…………良かった」

「? 何??」

ぶっきらぼうに聞き返すと、ノルヴェルトがゆっくりとセトを見上げる。

「良かった、セトが生きててくれて……」

そう言ってノルヴェルトはふわりと笑った。
躊躇いや不安のない、自然に現れた極めて貴重な青年の表情。

仰天したセトは一気に顔を上気させて乗り出していた身を引く。

「んな……何もしない内に死ねるかっちゅーねん!ノルヴェルトとうちは、これからが腕の見せ所なんよ!」

腕組みをして得意げに言うセトは少し照れているように見えた。
はははと笑っていると、『いつまで座り込んでんの』とセトに突っ込まれる。
上着を洗うどころか全身びしょ濡れになってしまった自身の体を見下ろして、ノルヴェルトは思い出したようにじとっとセトを上目遣いに見つめた。
はっとしたように苦笑いを浮かべたセトは頭を掻くと、『着替え着替えっと』と呟いて慌てて街の方角に駆け出す。

「んじゃ、そこで待ってて!」

そう叫んで駆けて行くセトを見送って、ノルヴェルトは視界に掛かる濡れた前髪を掻きあげた。
立ち上がり、両腕を上げて水の滴る服を眺めると溜め息をつく。

おしゃべりな連れが走り去り、ノルヴェルトは黙って立ち尽くす。
川の水の流れる音だけが辺りを包んでいて、ロンフォールの森は静かだった。


ひとまず水から出ようと歩を進め、川から上がるとふと足を止める。
そして一瞬躊躇ってから、背の両手剣の柄に手を伸ばし、その大きな武器を抜いた。


眺めると、先程獣人の血に汚れていたその剣は川の水に洗われ、綺麗な銀色に輝いていた。



<To be continued>

あとがき

戦争は終わっても、心はまだ終われない。
兎に重なる喪失、剣に染み付いた後悔、そしてそれを真正面から叩き割るセトの言葉。
戦い続けてきたノルヴェルトが、「生きること」を選び直す、その最初の一歩が描かれました。

どうか、この穏やかな時間を覚えていてください。